同居している母が、健康器具の無料体験コーナーに通っていて、日々、洗脳されています。
器具自体は、とても買えるような値段のものではないし、他に健康食品などを売れ付けられるわけでもないので、家族としては気を付けなさいよ、といいながら、静観しているところ。
体の調子は、それなりにいいようです。
40代くらいの、営業の男性は毎日集まってくる女子供を相手に、食品添加物の害などについてうんちくをたれているとか。
母は買い物の時に、保存料や合成着色料の表示を気にするようになりました。
なかなか、いいことです。
ポストハーベストの問題なんか、日本政府が悪いとか、受け売りで文句を言ってます。
茶飲み話で、友人とも話しているようです。
この草の根活動が、社会全体を動かすようなムーブメントになればいいのですが。
たとえば、投票行動から議会を動かすようになると、ほんとにいいんですが。

話しはちょっとずれますが(というかこちらが本題なのですが)海外で移植手術を受ける子供さんのための募金活動がいろいろと行われています。
私も現金じゃないですけど、livedoorなどのpointを募金させてもらいました。
でも、募金してそれでいい気になっていたら、ダメですよね。

たとえば、街頭で交通遺児の進学のために募金する人たちがいます。私が子供のころから見かけます。きっと、息の長い運動なのだと思います。それだけ長い間、改善されていない問題であるということです。
募金活動も大事だとは思うんですが、それよりも。
交通遺児が無理なく進学できるような公的な援助や助成金を、善意に頼った募金などの必要がないくらい、国がしっかり整えてくれるほうがいいんじゃないでしょうか。
そのための活動をして、法律を作っていく方向には、いかないものかしらと。
募金箱に100円入れるよりずっと大変なことはわかりますが。十年二十年も毎年街頭募金を続ける費用と人手があるなら、なんとかなりそうなものじゃないですか?

ひるがえって、移植手術のための募金ですが。
何千万、何億という善意が、集まっています。
海外での手術になるので、保険もきかないし、渡航費用もかかるし、大変なことなのですね。

この前、そうした移植手術を受ける赤ちゃんのドキュメンタリー番組を見ていた私の母は「ここまでしなくともいい、自分ならあきらめる。また次の子供を産めばいいじゃないの」と、どこぞの国の女帝のようなことをいいました。
我が親ながら冷たい人です……。私は、自分ならあきらめきれない、と反論しました。もうどうしようもない、助ける手だてがなんにもないならあきらめるけど、可能性が少しでもあるなら、出来る限りのことをしてあげたいのが、素直な親の気持ちでしょうと。
母も、自分がそんな立場じゃないから言えることでしょう。しかし、反面、実際にあきらめている親御さんもたくさんいるんだろうなあとも、想像します。
また産めばいいって意味で、ではないですよ。

自分たちでまかない切れない費用負担のために大々的な募金活動を出来る人は、たぶんあまり多くはありません。
子供のためなら、なんでもする、と思う心の一方で、でも他人様にそんなに迷惑は掛けられないと、どうしたって思ってしまうでしょう。
実際に募金を募っている方が迷惑だという意味では決してありません。
だって、1億円って言っても、日本国民全部で負担するなら、一人あたり1円です。
移植を受けなきゃならない子供が100人いたとしても、負担は一人100円です。我が家は今、5人家族なので年間500円。このくらいの負担なら、私はぜんぜんかまいません。

でも、募金をするのもいいのですが、そのほかに、もっと出来ること、違ったところからのアプローチがあってもいいと思うんです。
子供の移植手術に莫大な金額がかかることの大きな理由の一つは
日本では移植手術を受けられない、ということにあります。
18際未満がドナーになれないためです。
脳死判定と臓器提供については、社会的なコンセンサスが得られないとかいう理由で、法律の枠が厳しくなかなか先に進んでいません。
でも、本当にそうなんでしょうか?
少なくとも、みつみちゃんやまなちゃんの募金に協力した数万人の人々は、臓器移植に反対する立場の人ではありませんよね。
小さな子供でも、ドナーになれて、国内で移植手術が出来るようになること。
1億円の募金が集まることもとてもすばらしいことですが、それよりも、ずっと前向きなことではないでしょうか。

そうした社会になるために、私ができることは、いったいなにがあるでしょう。